広告 獺祭について

桜井博志さんのプロフィール|獺祭を世に送り出した旭酒造会長の人生とは

獺祭を製造・販売している旭酒造の会長である桜井博志さん。

「獺祭」を生み出したことで知られており、「どんな人だろう?」と気になりますよね。

そこで、プロフィールやこれまでの人生をまとめてみました。

波乱万丈な人生を送っておられますよ!

桜井博志さんは旭酒造の三代目

桜井博志さんは、1770年に創業された山口県の酒蔵「旭酒造」の三代目です。

旭酒造といえば、銘酒「獺祭」を作っている蔵元として知られています。

この獺祭を世に送り出したのが、他でもない桜井さんなのです。

桜井さんの簡単なプロフィールをご紹介しましょう。

プロフィール

  • 名前:桜井博志(さくらいひろし)
  • 生まれ:1950年
  • 出身:山口県周東町(現岩国市)
  • 学歴:松山商科大学(現松山大学)
  • 肩書:旭酒造株式会社 会長

家業が酒蔵ということで、幼いときは酒蔵が遊び場であり、とても長い時間を過ごしたと言います。

三代目ですから、そのまま家業を継ぐのが当たり前のようにも思えますよね。

しかし、桜井さんは一度、旭酒造を退社しているのです。

一度旭酒造を退社したことがあった

1973年に松山商科大学(現松山大学)を卒業した桜井さんは、鍛錬を積むために西宮酒造(現日本盛)へ入社。

就職のときに実家が酒蔵であることは伝えておらず、特別な扱いを受けるわけでもなく営業職をしていました。

 

1976年には、旭酒造へ入社。

しかし、そこで待っていたのは当時の社長だった先代である父親との衝突でした。

先代は桜井さんに特別な仕事を与えるわけでもなく、営業をさせていたそうです。

しかも、なかなか蔵に入れてもらえなかったのだとか。

 

桜井さんは、当時を回顧して「父は私の仕事ぶりが甘いと感じていたのではないか」と話しています。

逆に、桜井さんは先代の仕事ぶりに「田舎の酒蔵の狭い世界でやっているもの」という印象を持っていました。

さらに、先代は旭酒造の財務状況を見切っていて、最後には蔵を閉めるつもりだったのではないか、と推測しています。

 

先代と桜井さんは仕事の価値観をすり合わすことができず、ついに二代目からはこんな言葉が飛び出します。

「明日から会社に来なくていい」

桜井さんもこの言葉を受けて、次の日からは仕事に行かず、旭酒造を退職してしまったのでした。

先代の急逝を受けて再び旭酒造へ

桜井さんは旭酒造を退職したあと、喫茶店へゲーム機をレンタルする事業などを経て、1979年に石材卸の「櫻井商事」を設立します。

妻の親戚が石材採掘業をしていたものの、地元には石材の卸業者がいなかったことに目をつけたのです。

これが成功し、会社を年商2億円まで成長させます。

この頃からすでに、経営者としての才能があったのでしょう。

 

また、石材卸の事業を通して「モノがいいと売れる」という感覚を得て、酒造業界に足りないものは「品質」だということに思い至りました。

石材卸が順調だったのにも関わらず、旭酒造へ戻ったのはなぜだったのでしょうか。

1984年1月に、先代から「旭酒造を継がないか」と打診されたものの、一度は「自信がない」という理由で断ったそうです。

本音では、「父の道具となって働くことが嫌だった」とのこと。

しかしその直後、先代にガンが見つかり3ヶ月ほどで急逝。

こうして、桜井さんは「旭酒造へ戻る以外の選択がない」状況となりました。

ここまででも充分、波乱万丈な人生ですね・・・。

経営の危ない酒蔵を「獺祭」で立て直した

1984年、先代の急逝を受けて旭酒造の三代目社長に就任。

当時、桜井さんは旭酒造に対して怨念しかなかったそうで、「目にものを見せてやる」という気持ちでいました。

しかし、当時は焼酎ブームが起こっており、日本酒の市場規模は縮小を続けている時代。

旭酒造の売上は前年比で85%減という超低迷期。

 

旭酒造は当時、地元市場へ売り込んでいくスタイルでしたが、地元の人口は減っていく一方。

値引きをしたり、紙パック入りのお酒を作ったりと色んなことをしましたが、うまくいきません。

その頃から、お客さんの反応に手応えを感じ、「酔うため、売るためののお酒ではなく、味わうためのお酒」を目指して、大吟醸に力を入れ始めました。

 

その後「獺祭」を発売すると、1992年には東京に進出し、地ビール事業も展開。

しかし、この地ビール事業は2億円の負債を抱える大失敗に終わります。

さらに、もともと桜井さんと衝突があったこともあり、この事態がきっかけとなって「杜氏」が旭酒造を離れることになりました。

 

日本酒は基本的に杜氏がいないと作れないものですから、普通の酒蔵なら大ピンチです。

ところが、桜井さんはこのピンチをチャンスに変えたのでした。

ここから旭酒造の巻き返しが始まります。

 

杜氏がいないなら自分たちで作ればいいと考え、酒作りのマニュアル化・数値化を徹底。

さらに、日本酒は冬季に作るもの、という常識を変える四季醸造を実現したり、遠心分離システムを導入したりしてきました。

2010年には、世紀最高の料理人といわれるジョエル・ロブション氏と共同でパリに進出。

現在では欧米を中心に20カ国以上で飲まれる日本酒へと成長しました。

「かっこいい酒蔵になりたかった」と言う桜井さんですが、そのとおりになっていると感じますね。

社長の座を息子に譲り会長へ就任

2016年には、息子である一宏さんに代表取締役社長の座を譲り、自身は会長に就任。

旭酒造の四代目になった一宏さんは、世界に獺祭を広めることを目標としています。

父である先代が偉大なだけに、プレッシャーが大きいことでしょう。

おいしい獺祭を、これからも作り続けてほしいですね。

まとめ

桜井さんは、さまざまな挑戦をしてきた分、たくさん失敗もしています。

しかし、くじけることなく挑戦を続けてきたからこそ、成功をつかみました。

なんだか、桜井博志さんのプロフィールはとても学ぶところが多いですね。

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